榊 都美夫 詩集
目 次
榊 都美夫 詩集
夜の回想
隣 人
SEHNSUCHT
凍つた夜に
漂泊のはてに
人 に
HEIMATLOS
病める日には
間 歇
BEGEGNUNG
期 待
憎 悪
終 課
詩のない日々に
※1[「※1」は「金へん」に「肅」。読みは「さ」]びついて
病室にて
静かな心象
五月の午前
暗い日に
おとづれを
何にむかつて
かかる日も
CONTRE=SAISON
拾遺詩篇
波
無題拾遺
詩魂喪失
忘却の河
穉き昼
重い空
流れた光
深い幸福のために
習作V
習作X
期待の凪
譬 喩
遠 望
オロールの歌
小 景
糶 市
対 話
LIED OHNE WORTE
またの日を
未定稿
作品 3
作品 7
作品 8
作品 10
作品 11
作品 17
作品 18
小林繁太と共に 上原専禄(略)
榊都美夫(小林繁太)年譜
底本について
デジタル採録のメモ
榊 都美夫 詩集
■夜の回想
静かなあたたかな雨です
ゆるやかな屋根から
古びた破風と鎧戸とをぬらして
石だたみの上にながれます
だまって耳をかたむけてゐると
穉い物語をきくやうです
壺や絵や時計のある部屋のこと
あかるい道の上に死んだバラのこと
それから
あなたのはじめての微笑を想ひだします
それから
ながい眠りが私を
寂寥の夜のなかを旅させ
すべてを忘れさせます
けれどしづかな雨はまた
古い破風から石だたみにながれて
私に想ひださせるでせう
――消えすぎた時間を
あなたがいつか物語つたとさう――
■隣 人
ぼくは地球だ
深い気層につつまれてゐる
ぼくを望んでちかづく
星たちは冷たくきえる
かなしいおどろきの叫ごゑはいくつも
深夜の旅人の凝視に
ほの白い光をひいてのこる
■SEHNSUCHT
かれの部屋には壺がたくさんある 机の上に 書架の棚に 冷たい
埃にまみれてある それらにはなぜ花を飾らないのだらう 時あつ
てたれかがたづねると――
ひとが花を愛するのはそのはかなさのためだらうか
ひとが花を愛するのは
つぎつぎに咲きつぐ小さい生のつよさのために
ながい血統のしづかないとなみのために
だから
それらは朝露とZEPHIRと
忘れられた墓とともに愛するのがふさはしい
ぼくの部屋の古めいた壺の中では
あえかな一輪のバラも
つかのま あかるいかがやきに飾られ
やがて死ぬだらう
死んだ花はあやしい魅惑をもちはじめる
死んだ花はすべてをかなしくひきつける
ランプも時計も青いノートも
すべて死んだ花を忘れない
そんな部屋でぼくは生きてゐるだらうか
それよりも――
ぼくはさつき冬の町をあるいてきた
ぼくは飾窗の外に立つて
つめたいCHANDELIERの光にぬれた花を見つめてゐた
そして 壺はいつまでも埃の中にだまらせておかう
ぼくはさうかんがへてゐた
それはSEHNSUCHTだと
■凍つた夜に
闇の中にひめこぶしがしづかに芽をふいてゐる
闇の中を風がしづかに吹いてゆく
どこから そしてどこへ
消えたランプにささやきかけて
とかれたカーテンがなにかに絡みつかうとしてゐる
そして 星があのやうにうつくしくゆれるのが
孤独なあこがれの眼にだけ見えてゐる
いつか たそがれにあつた
そしていつか なかつたやうにうすれていつた
とほい信頼をよびさまして
(復活は信じるものにだけ実在する
かなしい光のこころを知るものにだけ
循環は深い言葉を織る――)
くらい夜に告げる星は
孤独なあこがれの眼にだけ見えてゐる
■漂泊のはてに
とほい祖先から伝はつた古いすなほな歌のこころをぼくたちはたづねあつた
この深い夜のあたたかさはアガペエとよばう この夜はやがて失はれる ぼく
たちは別れるから けれどいつかはこの夜の中でぼくたちは出会ふだらう――
―たとへば十年のあとで ぼくたちはもちろん十年を生きることを保証されな
い そのむづかしさがむしろその日を信じさせてくれる
ぼくたちがこの夜の中でふたたびあふのは何時だらう
ながい漂泊のはてに
この夜がめいめいの明るさになる時は
天頂から静かな流星はすべりおちる
その時 たかい宇宙ではながい光年が消えたのだ
けれどこの地上では
おもい砂時計から時間は雰れつづける
開いた花が凍る夜を うづたかく崩れるまで
それからとつぜん
美しいあかるい音楽のあとの静かさがくる
ぼくたちはさびしい山に立ち
とほい海にみちる光をだまつてみつめる
暗くながい漂泊のあとで
もつとかなしく
もつとつよく
もつとすなほなぼくたちに
この夜の回想の時はおとづれる
■人 に
とほくで窗が急にあかるくなると
たそがれのうすむらさきが深くなる
黄水仙の影がしづかに呼吸する
それはあたたかい孤独な時間だ
どこかでピアノをひいてゐる
そよ風はなぜそれをはこんでくるのだらう
すべてはとほく昨日であつたことをしるがよい
月が明るくみちるころ
あかりを消して窗をひらくがよい
蒼い風景の上には詩がかいてある
その時が夜だ
■HEIMATLOS
ぼくたちはもう小さい動物にかたりかけることをしつてゐない そればかり
かさうした心情をいくぶんさげすんでゐる けれども流竄とか 没落とか
くるしい言葉を身に沁みてつぶやく時 ぼくたちの生を飾つてゐる危険のさ
けられないかなしさを想ひはじめる時 ぼくたちは強ひられた習慣にためら
ふのだ 忘れようとのぞんだ美しい心情にかへつてゆくのはその時のことな
のだ 美しい小さい動物の瞳に見いりながら しづかな毛並を淡い悔恨のや
うになつかしみながら その時 ぼくたちはとりかへしのつかない愛の間隙
をくるしくかんじるのだ かなしい習慣と 去りがたい回想とが ぼくたち
の愛撫をいかにも無器用にしてしまうので ぼくたちはおびえた動物の痛め
つけられた瞳にひくいうめき声をかんじて立ち上がる けれども諦めきれな
いでぼくたちは愛の実現をいつまでも待たなければならない せつない孤独
がすぎさつた希望に気づかせるまで すぎさつたあかるさをおもひだすまで
待たねばならない 少年だけはさびしくない時にも小さい動物にかたりかけ
るのを想ひだすまで―――あくせくとささくれた貧しさがぼくたちの生活で
ある時にも 少年はかれのとしとつた犬を愛することを知つてゐる かれら
は一片しかないビスケツトをわかちあふ そしてあとはしかつめらしい碧い
空にむかつていぢらしい口笛がおやつになるのだ けれど少年の瞳はすみき
つてあかるい せつない反響に感傷的になるのはとしとつた犬のはう あか
るかつたあの日の想ひ出はどこにあるのだらう さえざえとかなしい芝生の
かがやきはちかづいてくる秋ではないだらうか むしられた花のしろさが不
安なやうに―――力ない涙は気づかぬやうに おもいためらひははげますや
うに 少年はあかるい笑ひでかけだしてゆく やがてそのしなやかな手足が
そこはかとない秋の光のはじまりに見える時 とほくおぼえてゐるなつかし
さはこの風景からぼくたちを去らせない 貧しさを 生きることの貧しさを
知りはじめた日々の中で去らせない
■病める日には
忘れてもいい想ひ出を横ぎり あれは山梔の花でもあらうか 黄ろくつめた
い糸のやうに花粉が雰れつづける この日かげりないまひるの光のまどはし
に
けさの光にあえかに開き匂つたはじめてのバラはもう悔いてゐるのだらうか
いつまでもみつめる壁のしろさをはぢらふやうに あかくうなだれる 午後
三時ころの光はなぜか冷淡なのだ
予感はいつもささへきれないほどおもいといふ 風見のフラツグはつひにく
ろいかげりとなり 風にかさなつておちた そのためにゆふべの光はかなし
くむらさきに澄んでゐる
この日もそのやうに 私の窗から光はのがれる 私はそれが光の飽和現象で
あることをしつてゐるのだが 病める日のぺいそすは時間のない幻想と考へ
たがつてゐる
■間 歇
ねむれなかつた夜に
人形から鉛の心臓はいくどか
おもい響をたてて壊れた
あの幼い部屋の傷ついたかなしみ
あかるいこの日におもい心は
したしいかつてのイドーラが
はげしく凍つた風景の中で
壊れおちるのをきいてゐた
ねむれない夜には
想ひ出を反芻しつづける孤独な時間を
道のとほくをすぎる旅人の
疲れた足どりはふみつける
■BEGEGNUNG
――そしてあまたの旅人は
これから君の許へくる道程にゐる
ハンス カロサ
はじめての心とこころと あたたかくふれあふ時
私が友よと呼ぶひとの瞳は深く澄みきつてうつくしい
かつて私がしたしいひとのいくたりにめぐりあひ
信じあひ 別れてその面影は見うしなつたとしても
ただ渝らぬしづかな光だけをおぼえてゐる
とほくかがやく山波のはて
あこがれる深い瞳が
忘れやすい雪の下 エーデルワイスを
たづねあつた日は何時?
・・・・・・またその瞳が 冬がれた並木道の上
やさしい日ざしに傷ついた
私の歩みを気づかつてゐた日は何時?
私はいつもおぼえてゐる
あかるい光と深いつめたさを信じてゐる
かたみにいたく傷ついて たかい忘却に歩みいる日にも
離れゆくのはその光ではない
やがてそれは
碧の空に消えのこるほのかなひとつの星となる
――私はそれを知つてゐるのだから
■期 待
私の日記は空白をのこしてとぢられる
私はいまあたらしい日にむかつて
あはただしい橋をかけわたる
私の前に風景はすでに見なれなくなり
そこに棲む人びとは
したしい沈黙で見つめてゐるやうだ
しかし気づかはしいいたはりにこたへるために
そこに立ちどまると
すると私のあたらしい日は
もう一層おもくなつてゐる
ためらひながら ふりかへつてみると
残つた空白さへもうすすぼけてゐるのを
私は無感動に見つめはじめる
■憎 悪
流れ星がおちる時 地上には静けさがあつた
樹々も獣たちも暗い影をうごかさないでだまつてゐた
深いねむりのやうに沈んだ光はおちていつた
そしてどこかの片隅に 疲れた隕石が横たはると
地上をむすんでゐた蠱惑はとけた
樹々と獣たちはたがひに
暴々しい感情でみつめはじめる
■終 課
ねむれない夜など
あなたはやはり天使のために
詩をおつくりになりますか
ひろびろとした忘却のはてまで
あなたをはこんで
憩ひがあなたをつつむやうにと
つかはされてくる天使のことを
お祈りになりますか
そして
しづかな夜に雪がふるやうに
あなたのうしろで
青い扉がしまるのをききながら
あなたはいつしか
ねむつておしまひになりますか
■詩のない日々に
ひぐらしは終日ないて夏をかなしくする
デツキチエアに ぼくはうすい膜のやうに
終日をまどろみ
うつくしくほのかな悔恨のかがやきを夢みる
*
ぼくはいくねんか昔にも
いまとかはらぬ淡いかなしみと
せつない悔のこころとで
この雲の流れるのを見たやうにおもふ
*
ぼくは光にくだけることを命じる
電光がきらめくのはもう淡いバラいろのやうだ
雷鳴は低いドラムのすり音のやうに消えてゆく
このたそがれを雨は悔恨の表情でふりしきり
とほい木立ではひぐらしがあのやうにかなしくないてゐる
*
ぼくはなぜたそがれのこの光に惹かれるのだらうか
むしられたバラの花びらを受けとるかなしみに似たこの光に
■※1[「※1」は「金へん」に「肅」]びついて
この期待はいく時間つづいたことだらう
むなしい悔恨といきどほりと祈りとをつつんで
ひたひたと不吉な鉛色の潮は流れはじめる
私と 鐘のやうにだまりこんだ私の部屋
凍つた一輪の花は私の掌でくだけた
死のやうにひしめく闇 そして
おびえた獣のやうに窗はうめいてゐる
(かはたれの光を奪へ! )
あれが破れたら? 私の部屋は海になる
(その時はおもかつた一日を深く沈めるのだ)
汚れた壁の傷口に
おもひきれない爪をかきたて
さびついたこころにむかつて私は呟く
■病室にて
かはききつた風がとつぜん歇むと
灰色の小さい光の塊はそのまま忘れられて
窗閾の上や 壁の隅 それから欠けた塑像の上にしみついてしまふ
病める肩をかたむけて
凍えた指を小さい咳であたためる私を
小鳥たちのおもい翼がうちつける
カインのやうにしるしをつけられて
すがれた病室は凍えた悔恨におちこむ
■静かな心象
砂時計は開いたTAGEBUCHの上に雰れる
かすかな斜面をすべつて谷底まで
そして小さい反響は深い静寂になげかへされる
すぎさつた日々のとほくをめぐりつくして
傷ついた想ひ出ももうにがくない
あはい郷愁と小さい牧歌とに縁どられて
それらの日々はしづかな秩序にすんでゐる
――窗の外 白くかがやく風のはて
ヴエラスケスの灰色を消しながら
とほい景色はものさびてゆく
そしてまるくかたむいた屋根には
一羽の鳩が冷えてゆく菫の光に
翼をひたす時を待ちながら
■五月の午前
けふの午前にも私は散歩する
棲みなれた町をあかるくゆるい足どりで
なんのくつたくもないやうに
あかるい蔦のたれた灰色の壁にかくれて
ピアノは狩の歌をうたつてゐる
小さい農園のしろいいちごの花とアネモネは
おくびやうさうに咲いてゐる
蝶にも微風にも忘れられてなほさらのこと
雨ざらしの鎧戸がさけてゐる教会の入口には
無邪気な犬がだまつて尾をふつてゐる
少女たちがあたたかい汗をぬぐつてゐる
崖の下のアンツーカのテニスコートは
沙漠のやうに大きくさびついたしづかさにつつまれて
少女たちのしろい上衣は痛々しく見える
この日私は散歩からかへると
恢復期のからだを椅子によせかけ
なにごともなかつたやうに
蒼くもえてふるへる空をみつめて
チユニス ビゼルタ攻略のニュースをきいた
■暗い日に
大きいFUGEに耳をかたむける
とらへられないLEBENと
とらへようとするERLEBENと
私はいつもそこにゐる
そしてあかるい波の泡だちのやうに
おもいためらひの堆積を
こえてゆくものに耳をかたむける
■おとづれを
おたよりをありがたう
ぼくのまだ知らない自然と歴史との中で
あたらしい生の成長を
くるしい日々に賭ける
君の生活のおとづれを
うつろひやすいこの季節には
ぼくがこのたよりをうけとるまでに
きみの周囲では風景はどのやうに変つたらうか
それとも君はもうあたらしい戦場にゐるだらうか
ささくれたむなしさになれて
ぼくは毎日 ラテン語や古いフランス語をよんでゐる
時々つかれた眼をあげると
深いつめたいかげりの中を
黄金の流れになつてかはいた葉がおちる
秋のにわか雨に似たそのざわめきにつつまれてゐるぼくを
君からのとほいたよりはおとづれてきたのだよ
■何にむかつて
月のあかるい夜 白い霧が流れてゐた
僕は銭湯のかへりにぬれたタオルをさげてゐた
しづかな凍つた路の上ではだれにも会はなかつた
僕の影も浮んでこなかつた
僕はかすかな渇きをおぼえてゐた
あはれな手のやうに冬がれた木立をとほして
白いつめたい月はくろい病院の壁をてらしてゐた
うすい霧には匂ひがないのでかへつてかなしかつた
立ちどまつて 何故だらう
僕はかすかな渇きをおぼえてゐた
さつきルネサンスのCICERONEを
読みさしてでてきた部屋は
とほいあそこで燈火をともしてゐる
かすかな郷愁のやうに渇いてゐるのは
ほんとうは僕の魂なのだらうか
CICERONEは僕の心をなぐさめてくれたけれど
僕はさつきタオルをさげて立ちあがらなければならなかつた
僕はそんなにひどく埃でよごれてゐたから
くらいさすらひからかへつてきたばかりだつたから
月のあかるい夜 白い霧の流れる路の上に
かすかな渇きをおぼえるのは
なににむかつてあこがれる魂だらうか
(抑圧のない時代があつたかのやうに)
すべての脈絡を失つて
僕はそつとこの言葉を呟くけれど ほんとうは
■かかる日も
不毛の砂丘のかなた
白くとほき雲はたたずみて
とこしへに消ゆる時をまつ
我はいまこの強き風にむかひて立つに
我が涙よ その時をあざむくなかれ
我がかなしみよ その時にへつらふなかれ
■CONTRE=SAISON
ぼくたちのまはりで空気は日毎に冷えてゆく
そしておもくぬれた空気には匂ひがある
きのふ森の散歩からぼくたちがもつてかへつた
かすかな落葉を焚く匂ひがいつまでものこるやうに
ぼくたちはいま傾いた季節の中にゐる
けふはしかししづかな歩みをとどめて
黄金の光にいぶされたとほい風景の
うれきつたかなしさにじつと見いらう
人々はもう晩咲きの花をふりかへらない時に
うすい冷えきつたゆふべの空気に
おちこんでゆく小鳥のなげかひに
心をうごかさない時に
ぼくたちは肩をよせ 傾いた季節にただずんで
ぼくたちの生で時間と自然にしるしをつけよう
拾 遺 詩 篇
■波
君は知つてゐるだらうか
静かにうちよせる波のこころを
そのくるしさとわびしさとを
波は光とあたたかな魂とにあこがれる
霧の深い夜
なつかしい白帆をはこんできた波は
はりつめたちからもうせて
くだけちる前 オゾーンの中でわびしくほほえむ
じぶんにうつるとほいともしびの影をだきしめて
そして波は静かにかすかに光つてみせる
私はある夜 海岸の病室で
とほい友だちにてがみをかいた
■無題拾遺
ゆきなやむ牧場の路は静まり
落葉焚く火のめらめらと見ゆ
そのはての白壁のかがやき
緑を失つた冬のさなかに
*
すれちがつたトラツクのあとに生々しい松の樹脂の香り
とほい山波をのぞんで私は埃の街道の上にゐた
*
花はうせ くるめく光こひしもよ
カンナ・ダリアの球根を掘る日に
*
薬の罎うすく映り光る雨あがり
枕辺に舞ひ落つる枯葉はいくひら
つれづれを粧ひ!
■詩魂喪失
夢にはそれはバンデイモウニアムでもあらうが
現実には夜が巨大なめかにずむに運転されるのだ
緑の星が明滅し
暗黒の意慾を解きはなして
さばえなすデモンがうちさはぐ
傲慾なオーケストラは
ハンマアとモオトルと流れる血の沸騰……
幾百の魂を吸収して
灼熱の鉄の海に流し
おお冥想の夜を逞しい腕で攪拌する
あてどなくさまよふ情熱も
かかる夜には
力なくよろめいて
鉄の造花によろはれる
ああ 宿命の星座の冷却した厭離……
■忘却の河
――Fに
(君はどんな色彩をかんじる あの名前をきくときに)
かれは訊ねた あかるい街路のとほりすがりに
赤とサフランに塗りわけてプリズムに似た
レストランのたかい飾燈を指さしながら――
その上には頑ななエメラルド・グリーンで活字が光つてゐた
(さうだね すこしまちたまへ)
あの店のしめやかなグラヂオラスの漂ふ香り
青い影と華やいだ佗しみと
いまPUREE TROP CLAIREに浮んだ小魚の
蒸された肌のゆるみをかなしんでゐる瀟洒なコンチエルト
(あれはメンデルスゾーンだね)
しかつめらしい頬杖に疲れたカーテンの蔭には
子猫の冷たい黒水晶に見入りながら
天鵞絨の毛並を愛撫する感傷がある
あの瞳がいつか砕けたら――
ぼくはその時くづをれる誰かの表情を憶ふ
(だけど君はどうおもふ)
(ぼくにはそんなものはない)
暗い微笑をかれはほほえんだ
そしてそれきり黙つて歩いたあの路の
かがやいたあかるさに映したかれの喪心が
ひとしきり倦怠の氷解するこの午後のぼくをくるしめる
■穉き昼
沈丁花 はるけくも
匂ひきたらん穉き昼の
おもかげは失はれしや
すがれしこころに
わがとりすがるおとなしさ
あかるきペン皿に光をあつめて
白き風 白き雲
わが室ぬちを漂へば
われぞいまさまよへる密漁者
祝福の血を憖ふ碧きいたちのまなざしは
閃ける氷河の凍るむなしさに似て
■重い空
その日 まだ※2[「※2」は「冫」に「敕」]芽をつけない梢は
雨滴を含んだ重い空を指してゐた
櫟や楢の木立をぬけて私は歩いた
散歩にはあまりに暗い旅愁に沈んで
――骨を埋めるほどの愛着で
すなほになにものもうけいれようと
なによりも疲れた悲しさを抛げかけたいと
沈痛な静謐はかへつて私を拒むのだつた
街道をいくつも横切つて
たえずみつめられてゐる重い空をかなしみながら
霜どけの畦に私は汚れてなほ立ちどまれなかつた
■流れた光
――シャルレ・ゲランの<青衣の娘>に
しらはえは想ひ出をうばつた 静かなかなしみから
けれどお前はもうふりむきもしない
きづかはしさうに五月の花は散りおちる時
美しい凋落だと誰かは呟いたけれど・・・・・・きこえもしない
そして しらはえは忘れられてすぎてゆく
黙つたままお前は寂寥の月影に充される (未定稿)
■深い幸福のために
――Y・Aに
私は私が飢えさせた小さい獣の夢をみる
昔の和やかな時間は私を
かれらの感覚と表情とにちかづけたが
やがて暗いものぐるほしい潮流は迫つて
すべてはとほく失はれた
もはや単純にすなほに動かない私の心は
孤独と冷たいかなしみの中にねむつた
ながい渇いたねむりのあと
失はれた風景に茫然として
私はいま見棄てられたものの死が
唄ふのをゆるい風の中できいてゐる
なにものを喪ふとても惜しからむ
汝が明るさと翳りとの奇しき歴史も
むしろ見つめよ
汝が剥れおつる幻想のアラベスク
あかき閃光もて
汝の儚みの想出をゆすらんに (未定稿)
■習作 V
にはかに明るく眩しい粧ひの街で
貧しさはあらはにはぢらつてゐる
おもいかなしみだけがかはらない小景
おとなしく死ぬために飼はれる鶏は
たるんだ時刻を肉屋の店で告げてゐる
白い柔かい羽根の上で温かい裸体がねむる時
愉しげなあかるい上衣の少女たちは
通りすがりにかげりない瞳を瞠はり 饒舌はとだえる
はじめての哀愁のやうに深く美しく――
そして六月の太陽はむごく眩しくかがやいてゐる
■習作 X
わたしは海辺の夜を歩くとき
重たい波は白い形象の間を
とほい記憶をはこんで愬へる
しかしわたしがためらつてゐるので
かなしい歎きとともにくだけてしまふ
やがて愛惜の心がわたしをこごませ
拾ひあげるのはボタンではなく
小さな塔のやうな貝殻だつた
新しく生れた星が墜ちたと
いつてもいいのだが わたしは何故
急に暗くなつたのだらうとおもふ
■ 期待の凪
あれはしづかな曇日のざはめきが落莫の時間をつつんでゐたときのこと
まちもうけた記憶が与へられた
梅霖のたえま 明るさをねがふ心にはわづかに霽れた雲のかがやき とほく
蕭瑟の響きを交へて
ふんづきなかば凋落は早くもちかく
黙然と 人はくづをれる凝視でそのやうに篤い病をつげた
はげしい生きるあらがひは彼の脳髄をうち摧いたと
惻々と白き影のそよぎ(かの蝶は葎にすがりてわづかに憩ひぬ)
かくて たれかありし日を耐へがたいといふ 傷ついた感情の断層さへも
ああ かつての日 ぼくは彼とそのやうに別れたが
にがく悔恨を強いる別離の俤も心にはちかく眼にはとほく
気づかはしげに ただ消息に耳を傾け
いつしか忘れ去る日の来ないとはたれがいへよう
翳りない勁さで人を諷した彼の表情さへも
危い予感は頑なさばかりがしつてゐた
人づてに
古い生活と感慨の山河をはなれ 彼が旅を想ふ心にすみなれたとき 形象は
はげしくゆらいだといつか信じた
仄かな暗さに沈んでさすらひとあこがれがすべてであつたとき
ねがひもなくすがれた苦悩の日を生きた 若い魂とともにたたかひの心はな
かつたと
むなしく慟哭がぼくに憑いてゐる
孤独であることはわづかな慰めであつたから
たしかな歴史 饒かな自然 美しい塑像
ものぐらい姿態と没落のなげきを措いて
再び旅だつ装ひと決意を前に
彼の病ひが篤いときくとき
淋しい犠牲とやがてよばうか
すべてはとほいきのふの感情とぼくはいはうか
さはあれ
彼の死は潮騒のごとく混沌の心をめぐり
空間に軌跡をひいて廓廓と落ちるであらう
どこへ? そしていかに?
だがぼくはこの疑惑を指して少しも重さに崩れはしないだらう
その意味が激流の凍える暗さよりはげしくとも
しづかな啓示が死をかがやかす
生きることはそのやうにむつかしいくるしさをもつと
■ 譬 喩
犬は埃の道に横たはつてゐた
風が気がとほくなつたやうに吹き漂ひ
ひとり少年は午睡の時間をぬけだして
蔦がもがきながら絡みついた破風のてつぺんに
くま蝉の透明なはねが顫へながら
潤んだ瞳をひきつける
深い木かげからものうい姿が現はれる
きのふのこともすべてがとほい昔のやうだ
(それはあなたの饒かな単純さでせうか それとも私の哀れな複雑さの業で
せうか)
低い石垣 銹びたくぐり門 濃い芝生
たしかな影のうつりゆき 失つた光景
たばこの煙はまつすぐに蝉声までのぼつてうすれる
かたくなつたくま蝉の胴はクレオソートがかすかに匂ひ
はねは曇つてもうなんねんも脱落してゐる
■ 遠 望
四月のひるさがりに黄沙がふる
杉の喬木は海のやうに深く鳴り
はやい風はスレートの屋根をこえた
碧のあたらしい鎧戸はかすかに呟き
人気ない花壇の畦に一羽雄鶏
さからつた羽根を大きく開いて
悲痛な叫びはとさかとともにひきさけて
見えないおそれにむかひ
黄色く染つた雄鶏は叫びつづける
こたへるのは 深い海の潮騒だけ
鎧戸はかたく閉されてゐる
■ オロールの歌
リリエンクローンの詩を読んでから ぼくの部屋をでると 深くやはらかに
雪がつんでゐた 百合のいぶきのやうに とほじろく 淡く雪は熄んでゐた
真夜中のぼくたちだけが聞える大きい道を静かに歩いてゆく 君はふと暖か
さうな星の宿りを仰いで スカンデイナヴイアの空はどんなにあこがれをも
つてゐるだらうといふ 暴々しい自然のなかでどのやうに人々は愛の光を知
るだらうといふ ぼくは雪原の虚無に幻影の城が聳えるのを想つてゐた と
ほいゆきつけない天路歴程のことを想つてゐた
命ぜられた彷徨のはてに ほの白い影のやうに ぼくたちは凍えてしまふの
だらうか なぜ? 問ふことだけがある 立ちどまつて君の明るい眼はぼく
の重さの底で光つてゐる なぜ? ぼくは黙つてとほくをみつめる
あそこがいつまでも明るいのは岡があるのだ ぼくたちは別れる またいつ
か会うために ぼくたちの手の暖かさと冷たさが光の中で告げあふだらう
ぼくたちは別れる こんどは ぼくが岡をこえてゆくだらう
――だがいまは君がむかふへこえ 黙つて足をはやめるだらう ぼくはまた
ながい道をかへつてゆく 傷ついた獣がのこしたやうに よろめいた足跡が
きえないだらう ぼくの行手にはつきりと そしてぼくは雪原の死を想つて
ゐるだらう ――君はそんなぼくに明るい笑ひではなしかける 白い虚無の
世界にぼくと君とめいめいの時間を支へあつて立つてゐると 君の微笑はそ
のやうに明るく暖かい
■ 小 景
ていねいに羽根を毟られた雄鶏の
さつきの貴族のやうなとさかはもう重い
紫で隅どつた眼を閉じて
白い羽根に埋まつてゐる
スープの眼のやうに黄色い足をまつすぐにして
裸の心臓はだまつてふくらんでゐる
かれには感傷的なエレヂイはいらない
もうたれにも妨げられることもなく
かつての修道僧めいた
奢りたかかつた生活を夢みてゐるのだから
■ 糶 市
そこで商つてゐるのは ぼくがいつかなくしたものばかりのやうだつた
たとえば――
クリスマスの夜のしづかな雪ふり
鳩時計の朝の歌と最初の日光
とほく消えた汽船の煙
ひとりみつめてゐた時の白い薔薇
雨に濡れておちる朴の花
旅の日の淡いかなしみ
ぼくは一枚の銀貨しかなかつたのでアセチレン燈の匂ひだけをおぼえてかへ
つた
■ 対 話
青いシエードから流れる光は孤独な明るさです 話しかけられるのを拒んで
ゐるやうに あかりを消した窗に月影が盈ちると夏の高原のやうです うす
むらさきの樹の影がひつそりと溶けあつた森のむかふに うすく裏まれた月
はとほい記憶のやうです まどろむやうな静かな風景の中にはいつしか か
うした夢みがちなぼくを眺めるもうひとりのぼくがゐます ぼくでないぼく
が むしろほんとうのぼく(であつてほしいぼく)が あくせくと単調な生
活に傷ついたぼくを 祈りも歌も忘れたぼくを あはれんでゐます 月影に
蒼く浮んで歩いてゐるぼくは とつぜん指を唇にあててたちどまります た
れかがIMPROMPTUを弾いているといふのです かすかなACCOR
Dに耳をかたむける皓い表情をみつめる ぼくは いやぼくでないぼくは
そこがあこがれであり 詩であることを想ひだして 愕然とします そして
夜の牧場を※3[「※3」は「糸へん」に「亙」。読みは「わた」]つていつた
歌ごゑをきいた日のさすらひの旅をなつかしくおもひます さあまた旅に出
る時だ ひとりのぼくはもうひとりのぼくをいたは
りはじめます (未定稿)
■ LIED OHNE WORTE
あなたが南の海をわたる日に
傷つかぬやうに若い桜は掘りとられた
あたなの美しい想ひ出に
<三年たてば甘い桜桃はうれるでせう>
いつかあなたが澄みきつた瞳の大きさに
まげた指のしなやかさを……
<そして別れのかなしさは何がかもすでせう>
私の低い呟きを……
窗辺のあたりいまこの風は
春に吹く淡い西風
静かな光につつまれて船出のやうに
ほのかにやさしい感傷で (未定稿)
■ またの日を
――そしてものうい丘のかたかげ
私と羊を飼ひたまへ ハウスマン
もしけふが土曜日ならば 私は憩ふだらう
落ちつかない午後のカフェ・ハウスに
私の時間は黙りこみ 読まない詩集は手の中でおもくなる
煙草の煙はしづかな碧に消えはてるまま
私はたとへば 告別ソナタをききたいとおもふ
私にはもう 別れて惜しいものはないけれど……
人びとはしかし山へといそぐだらう 見しらぬ人よ
ひとりはひとりをいつまでも待ち 君たちは立ち去つてゆく
慣れない肩のルツクザツクと
手にはものおぢたアルペンシユトツクの光をみたまへ
とほい旅をのぞんではしかしわかちあふ愁ひしかしらない
その愉しさにやすらひたまへ
あかるさは しづまつた滑石のテーブルのほとり
いくつかのタツセとかがやいた銀貨と
いつしかに見なれぬ尖塔のごとく たかく
けふのため飾られたしるしとなるだらう
かくてゆふべの雑踏をすぎ 消えのこるピアニシモのごとく
白く風は閃くだらう そのときに
とりのこされたカフエ・ハウスの一隅に
医された古い疲労と すこしかなしくなりかけた悔恨と
いつまでも去らせずに私はだまつて坐るだらう
もし けふが土曜にならば
そのやうに静かな憩ひに暮れるだらう
■ 未定稿
船が埠頭をはなれてゆく時
望遠鏡のレンズは方解石のやうに
風景を二重にする
あかるい灰色の船はいつしか
おもい氷山のやうに はげしく暗い空を支へ
光の破片となつておちる※4[「※4」は「區」に「鳥」。読みは「かもめ」]は
動物園でおつとせいがやはらかい裸の肩に
はねのこした潮くさいしぶきをかんじさせる
風景は空間で二重になり
しかしまだ時間の凾数は不明なうちに
方解石は耐へないで解け あとには
波と 空と 光のやうな風と
■ 作品 3
あをく透いた膚に泌みいる
木洩れのつめたい秋の光!
いたづきのゆゆしいいく月
わたしにこれが信じられただらうか
すべてがほろびにむかふ時
ほそくするどく私のいのちは燃えたつて
年ふりたしづかな尖塔さながら
つめたい木洩れの光にかがやくと
■ 作品 7
やがてながい夕がくると 静かな窓にはあかりがともり
青い笠の上にはとほいCARAVANが浮びでる
朝の冷たいオアシスは深い澄みきつた空にむかひあつてゐる
祝福された旅はアラーの神とともに沙漠のはてにつづくために
ながい駱駝の列は殉教者のやうに
静寂と死の陰とに歩みいる
時はうつろひ その幻の消えるころ 私はあの詩をよまう
《サマルカンドへの黄金の旅を》 かれらの叫び
むかしサラセンびとのあこがれと祝福の土地
サマルカンドへ 私のCARAVANは旅をつづける
■ 作品 8
お前はこのごろ黙つてゐる
北の国ではながい冬がお前をつめたくする
たまさかひそやかなあかるさでかがやく太陽も
あたためることのできない
碧い峡湾の氷と深い森や谷間を埋めたはてない雪は
お前の小さいあこがれをこごえさせる
生きものたちの小さい生命がとらへられるやうに――
お前はもうつめたい骨のやうな風の事も愬へない
そしてただ蒼ざめた薔薇のやうに気づかはしく黙つてゐる
すなほなたのしい思ひ出がいつぱいなビョルンソンの本を披いて
私はお前の冬の風景をかんがへてゐる時に――
■ 作品 10
カナンの土地に乳と蜜とはもう流れない
甘いたわわな葡萄ももう熟れない
けれどぼくたちは埃の道を歩きつづける
ほのかにあかるい岡やさびしい牧場をすぎて
ぼくたちは信じてゐない道を歩きつづける
深い冷たい泉 朝焼のしづかな雲
とほい角笛 流れて消える白い星
そしてシルフに似た少女の誘ひにも
ぼくたちはいつも旅人の挨拶をおくるだけ
信じられないとほい道を歩きつづける
■ 作品 11
――EN SOUVENIR DE F
君と僕とが出会つた午後のカフエ・ハウスの小さい隅を
(君はまだおぼえてゐるだらうか)
かるはづみな五月の雨はいくどもすぎていつた
その窓のほとりには常春藤が濡れ 朴の匂ひに光はおもくなつた
ぼくらがだまつてきいてゐたドウビユツシイも
鈍色の郷愁につつまれてゐた
いぢらしい《亜麻色の髪の少女》の微笑と
華やいだ《ONDINE》の侘しみと……それらのこころは
あこがれといぶせみに病める心はとり縋れ
よそよそしい身振は孤独のしるし
そして嘲りにやつれたボヘミアンの暗い微笑は?
(君はまだおぼえてゐるだらうか)
ただ明日を粧ふものだけがすなほであかるく
今日の日は冷たい骨を凍らせる……
今日の日の重い時間は《SOUS=ENTENDU》に支へられ
ぼくらが黙つてドウビユツシイをきいてゐた時
(何故 君はそのやうに傷ついた眼をとぢるのだらう)
暗い壁の上 ながい忍苦のマスクをみつめて
君の瞳は 深くきびしい光を拒む
そのやうに傷ついて(何故に) したしい問には
君のただ薄い唇はしづかに顫き あのモテイーフをくりかへす
きよらかな祝福とあきらめのしづかなモテイーフを
より深い沈黙の時をいざなふかのやうに
牡鹿のやうにものうげなこのいぶせみのしるしづけ
ぼくらはだまつて告げあはないその時に……
五月の雨はしづかにいくどもすぎさつた
たれかはフランダースのいくさをかたりあひ
冷たいコーヒを啜つてゐた
五月の雨はしづかに濡れてすぎさつた
おほきくつめたい朴の樹影に
(君はまだあの午後をおぼえてゐるだらうか)
■ 作品 17
(いまに葉のおちたこの並木道をひとり歩く時には)
淡い感傷がぼくに呟かせたあの日の言葉と
そして考へぶかい表情を掠めた君の微笑と……
君はいまとほい野戦場にはじめての冬を待つてゐる
ぼくはながい孤独な夜のあとで大きいあかるい並木道をあるく
湿つた落葉の上に靴音は消えて
うなだれたぼくの耳にはとつぜん 澄みきつた可憐な声がきこえる
(あれは頬白だ もう山では雪が深いのかしら)
立ちどまつて とほいかすかな山波をもとめるぼくの眼に
小さい影はあはただしくまぶしく消えて
たかい細いまばらな枝をはなれたあかるい光は
したしいかつての手のやうに
重い信頼の身振りでぼくの肩をおさへる
■ 作品 18
窓の外ではあんなに風が吹いてゐた ある夜
廃虚のやうに大きいかなしい影はしづかになれなかつた
さつきからぼくは臆病な恥らひでいつぱいになり
新しい手帳の悪意に盈ちた表情をみつめてゐた
凍えた指の中で古い※1[「※1」は「金へん」に「肅」。]びついたペンは
沈黙した時計台のやうにけはしくいらだたしい
長いとぎれた時間――
美しかつた青い形象と
静かな回想に似た音楽とは
とほく捕へられない水のやうにのがれた
僕の信じすぎたゲニウスはつひにぼくを見棄てる
何故に――むなしい間にはただ皓い光が答へるだけ
古いペンは――ああ ぼくはむしろそれを棄てて
潔らかな悔恨と祈りに身をまかせよう
(終)
榊都美夫(小林繁太)氏の年譜
一九一九年十一月四日 誕生。本籍地は兵庫県神崎郡船津村二〇一〇であるが、主として大阪市住吉区帝塚山西二丁目一八に育つ。父は、天王寺区寺田町に小林化学製造所を自営する実業家。実母は、繁太の少年時代死亡した。
一九三七年 大阪府立住吉中学校四年修了で、東京商科大学(現一橋大学)の予科に入学し、東京都北多摩郡小平村小川の同予科一橋寮へ入寮した。一時ラグビーをやっていたが、後、新聞部、文芸部および短歌の会・聖樹社に属す。哲学、文学、社会科学の書物を精力的に読破していった。
一九三八年 予科二年に進級。ひきつづき一橋寮に住む。予科会文芸部雑誌「一橋」および、「一橋新聞予科版」(以下予科新聞と略称する)に創作・詩・短歌ならびに短い評論をつぎつぎと発表。榊都美夫の筆名は、この年五月ごろから使い出したが、この年は、それまでも使っていた種田条で、もしくは本名で書いている場合もある。この年発表のものには、創作「逃亡」、短歌「前夜」、書評「リアリズム論争」(バルザック、スタンダール、ルカッチ)(「以上」一橋四〇号)、評論「恋愛における結晶作用――スタンダールから」(予科新聞、四月)同「自然主義における物質主義と理智主義」(同、五月)書評「赤と黒」(同、七月)、評論「メダンの群とゾラの実験小説」(同、九月)などがある。J・M・マリやエリオットに学びつつ、主として十九世紀リアリズムを再批判的に研究していたあとが判る。
一九三七年 三月、寮を出て吉祥寺に移る。予科二年に止る。予科会文芸部委員長となり、新聞部員を兼ねる。予科新聞に評論「主観の燃焼とリアリティ」(一月)、詩「よろめき」(二月)、評論「創作と批評精神」、劇評「神聖家族」、詩「アイシャドウ」「反抗の天使」(四月)、書評「燃ゆる頬」、劇評「海援隊」、紹介「クライテリオン廃刊」「ソヴィエトとシェークスピア」(五月)、書評「乗合馬車」(六月)など書いたが、六月新聞部を辞め、旅に出る。この春を転機として、自然主義的なリアリズムにまったくあきたらなくなり、プルースト、リルケ、堀辰雄、立原道造などに傾いてゆく。八月、旅より帰り、九月より国分寺に下宿、多病。十月、雑誌「一橋」四十一号の編集・発行にあたり、自身、創作「旅ゆくこころ」、詩「傷痕」、評論「プルウストの論文」および翻訳「批評の機能」(J・M・マリ)を発表。十一月予科新聞に評論「ユナニミスム――ジュール・ロマンの信仰――」を発表。
一九四〇年 前年春、大阪に帰ったなり病臥し、二月中旬ようやく上京、その間、雑誌「一橋」四十二号のために創作「きさらぎの歌」および詩「詩魂」(後「詩魂喪失」と改題)「独り占ふ」「百日紅」を寄せる。上京後、しばらく国分寺にいた後、西荻窪に移る。予科二年に止まり、文芸部委員長を辞す。中学時代の師・伊東静雄、詩集「夏花」を発刊するにつき協力。伊東の影響下にあった大阪・京都の友人と同人雑誌「耕人」をつくる。
一九四一年 四月まで大阪にあり、以後在京。予科二年に在籍。前年どおり西荻窪に住む。七月、予科新聞に詩一篇、十月、雑誌「一橋」四十五号に詩「美しき獣」(後「隣人」と改題)、「期待の凪」「譬喩」「波」(この詩集の「習作V」)を発表。十一月、予科新聞にエッセイ「対話と別離――立原道造『風立ちぬ』――」および詩「ランプ」を発表。
一九四二年 一月、予科新聞に詩「旅」(後「漂泊のはてに」と改題)、二月、雑誌「一橋」四十六号に創作「風の門」および詩「凍った夜に」「オロールの歌」を発表。各所を旅し、四月中旬帰京。予科三年に在籍。この年は詩作多く、この集の「HEIMATLOS」「対話」などこの年の作である。九月、杉並区阿佐ヶ谷の河北病院へ入院、胸部形成手術をうく。十二月、退院、大阪へ帰る。
一九四三年 小康をえて、四月上京予定のところ、はたせず、雑誌「一橋」に詩「病める日には」「間歇」「出会」(後「BEGEGNUNG」と改題)、「またの日を」を寄せる。七月にいたり上京。杉並区阿佐ヶ谷一ノ八三六田畑方に住み、スタンダール、ジード、リルケを考えつづけ、とくにリルケの評伝を書くことに心をかたむける。九月、予科を修了。本科に進み、上原専祿のゼミナールに参加。この年の春、学徒出陣のため、ほとんどすべての友人を身辺から失う。自身は丙種合格で兵に征かず、敗戦の必然を信じ、数少なくなった友人にその信念を漏らしていた。
一九四四年 歴史学へ没頭する姿勢さだまり、上原教授の指導のもとにフランス中世の英雄詩を研究。十月中旬、学徒動員による勤労奉仕として商大研究所へ通っていた東京女子大学生徒木村うた子と知る。この年の暮ころから、詩作はほとんど乏しくなるが木村うた子の談によれば、以後も詩作に努めていたという。
一九四五年 三月、幡ヶ谷本町へ移転。五月二十五日戦災に遭う。七月、木村うた子と結婚。うた子の家のあった埼玉県児玉郡本泉村福沢に住む。
一九四六年 本泉村よりときどき出京。上原教授宅に泊まることもあった。九月継母死去。一時大阪へ帰る。同月二十五日附で大学卒業。
一九四七年 二月、うた子とともに大阪へ移転。三カ月ほど占領軍検閲局につとめる。中世の西欧における封建制の研究をつづけ、八月上原教授に卒業論文提出。
一九四八年 研究の継続をくわだてる一方、詩集刊行の準備につとめたが、病あらたまり、八月十一日死。
(死後、友人の手により、「一橋文芸」復刊第一号、第二号、第三号、第六号に、それぞれ詩数篇ずつが発表された。)
(東京・村上一郎氏記)
●底本について
榊都美夫遺稿刊行会、一九五九年十二月十三日発行百五十部限定本による。編集は桶谷秀昭、村上一郎。榊都美夫遺稿刊行会の発起人は秋田ぎろく、上原専祿、木村うた子、林正純、永田洋、村上一郎、有馬文雄、桶谷秀昭、塩沢清、日合碼一、村岡清、弓削達の各氏。
詩集後記(一九五九年十一月)には「この詩集は榊都美夫(小林繁太)の旧い友人たちの手によって発行される。一九五九年四月、彼らは遺稿刊行会をつくり、八月を期して、まずこの詩集を刊行し、故人の没後十一周年の命日にそなえようとしたが、経済的な理由ではたせなかった。いま、ようやく多くのひとの好意によって、それが可能となった。詩集の前半「榊都美夫詩集」は、故人が自選して発行を準備しながら、実現を見ずに遺された、そのままの形のものである。後半の「拾遺詩篇」は、木村うた子の手もとに遺された二冊のノオトと、雑誌「一橋」とから、桶谷秀昭、村上一郎が選んで編集した。ほぼ制作年次順に配列されている。遺稿刊行会は、なお多くの作品、書簡などの発表を心がけている。ムラマツ印刷所、橋本製本所の与えられた援助を、発行者ならびに読者は、忘れないであろう。」とある。
●詩集デジタル採録のメモ(平成十三年十一月十七日記)
採録者がこの詩集をデジタル化したのは、詩集を編集した村上一郎氏より昭和四十八年、榊都美夫遺稿刊行会発行百五十部限定本の写しを贈られたことがきっかけである。採録者はその清冽な詩魂に感銘を受け、かつ詩集が刊行会会員限定配布に終わったことを惜しみ、いつの日か世の人に知らしめたいとの希望を持つに至った。詩人の没後五十年が経過し、著作権の問題がクリアされるとともに、インターネットによる資料公開の道が開けたことにより、故榊氏の詩集をここにデジタル資料として採録させていただいた。なお、仮名遣いは底本のまま旧仮名遣いとした。(地域資料デジタル化研究会・井尻俊之)