第三編 町の起源と發達過程

 第一章 原始時代と古代


  第一節 先史時代

 日下部町の先史時代の遺跡は、早くから知られていた。その分布状態は、七日子や、立石の著名な遺蹟のほかにも、本町の到る処に、廣範囲に亘つて分布しており、それを証すべき遺物も少なからず出土している。
 元来、日本の先史時代と云うのは、新石器時代に属すると云われ、その先史時代を更に大別して、縄文式時代、彌生式時代等と云つているが、それだけに単に石器時代と云っても、既に彌生式文化のように、金石が併用される時代も含まれるので、その時代の幅は非常に廣く、私達が、想像以上の悠久の年月が流れている訳である。  本町の先史時代は、日本の古代史としてこのような長い歴史の推移の中では、縄文式時代の中期頃になつて、急激にその分布状態が發達するが、降つて、彌生式時代の遺跡、遺物等は非常に稀薄になつてしまう事が注目されている。しかも彌生式時代につぐ土師の遺跡は、再び叉発達した過程を示し、土器や鉄器等の出土遺物は極めて豊富である。
 かゝる様相を眺めると、先史時代を二大別する縄文式、彌生式の文化の中で、本町のように彌生式文化のみが稀薄になつてしまう事は、考えようによると、そのまゝたゞちに日下部町には、彌生式時代の人々が住まなかつたのではないかとさえ、思われがちであるが、然し悠久の年月の中で、不安定な蒐集経済から、生産経済にと移行した私達の遠い組先の姿は、単に日下部と云う、限られた地区の出土遺物のみによつて、その人類生活を推し計る事は困難であり、簡単に、住んだとか、住まなかつたとか、云う事は出来ないのである。
 叉、縄文式時代の人々などは、土器や石器を盛につくり、簡単な竪穴住居に住み、その立地する環境に応じて、野や、山や、川に、食生活費材を求めて、放浪していたのであるから、尚更、一地区を限定する事はむずかしい。しかし七日子や、立石地区に、割合に集中的に遺跡があり、長く住んだ様子が窺われるのは、笛吹川をひかえ、廣い原野を懐ろに抱いたこの地点が、古代人にとつては、もつとも生活環境に適合した、住みよい処であつたと思われる。
 かくて、笛吹川東岸の丘陵台地上には、処々に先史時代の聚落があつたと想像されるが、今までの処、本町にある住居址は七日子遺跡に三カ所発見されている。これ等の住居址は、共に縄文式中期の土器群にともなうものである。
 当時の住居址は、半地下式の竪穴であり、特に土地は乾燥し、排水の好い処が選ばれている。竪穴の深さは、何れも約四〇糎位、中央に石でしつらえた炉を設け、床は搗き固められている。大きさはほゞ直径四米位、円形、もしくは楕円形の家跡である。炉の石は花崗岩で、角、或は円形に囲み、切石もあつた。柱穴は一号住居址に一個を認めたのみである。これ等の竪穴は、現在の耕土より、約五〇糎から八〇糎位の地下に埋没されている。
 立石地区には、未だ住居址は発見されていない。然し遺物の分布状態からみて、相当数の住居址群が埋没されている事は確かである。これは他の部落の遺物散布地にも云える事であつて、往古、原始林の続いた日下部の原野のそこ此処には、七日子に見られるような、竪穴住居が点在し、本町の聚落の発生を形づくつていたと思われる。
 七日子や、立石に、割に長く古代の人々が住んだ模様は、その頃の常用具であつた土器や、石器が豊富に発見される事から知られるが、これを前期、中期、後期等の土器の、編年により当てはめてみると、やはり、中部山嶽地帯にもつとも発達した勝坂式(中期)が特に多く、それよりやゝ下る加曾刹式、後期に入つての堀の内式などに並行するものが目立つている。
 叉、更にこれを本町全般に亘つて微細に眺めると、七日子遺跡中からは少量であるが前期関山式の土器片が発見され、立石地区は中期初頭の五領台式、阿玉台式などの線が強い。又八日市場からは土師の遺物に混つて、後期加曾利B式などの土器片が少量ながら発見されている。層位的に注目すべきは、信州平出遺跡などに見る如く、縄文文化と土師文化のより深い接近が七日子遺跡に見られる点である。叉御神領地区(七日市場相反保)からは、水田の下約二米に勝坂期の遺跡が存し、これは今までこの辺の地形が常に笛吹川の氾濫原であつたと考えられていた事に対する反駁ともなり注目される。
 この時代の究明にとつて、もつとも大切な土器の形態及文様は、まづ形態を眺めてみると菱形が多く、続いて深鉢形、壺形等であるが、異形では釣手形土器が、七日子や、立石から出土している。関山、五領台、阿玉台形式のものは、形態は判明しない。

(図版入る)

備考 本表の数字は町内在住者の所有する概数であり、略完形品のみをあげたが編年は別表に示した。

 文様は、地理的環境から、自づと独自の文化も生れており、從來の関東編年とは異なつたいわゆる中部山嶽地帯を主体とした流れが濃厚である。
 石器としては、七日子や立石地区がやはりもつとも豊富に出土している。特に敲石の数が多く、石皿は、立石地区は沢山出土しているが、他は少ない。七日子地区などは自然石を多くもちいた爲であるかも知れない。石棒も七日子地区や、下井尻地区から発見されたが、下井尻では屋敷神に祀つたものが二つ程あつた。石斧は打製石斧の数が豊富であり、割合に分銅形が多い。叉七日子地区には石鏃鏃の発見もある。石鏃は立石地区が最も豊富で、他の地区は余り発見されていない。
 本町の遺跡からは、土偶や、土獣の発見の多い事も一つの特徴である。その表現には、人体を写実的に模したものと、甚だ怪奇な形を有するものとがある。殆んどが女性像であるが、七日子の土偶の写実的に対して、立石の土偶は幾分怪奇なものが多い。変つたものには土獣があるが、それは殆んど立石出上のものである。装飾品には※(けつ おうへんにかい)状耳飾や滑車型耳飾、玉などがあるが、これは一方的に七日子地区が多い。※(同)状耳飾は、石質は蛇紋岩であるが数少ない遺物である。
 七日子や、立石地区からは、石製や土製の錘が発見されているが、石製は分銅型であり土製は滑車型である。
 こうした諸道具の比率や形態は、其処に住まつた古代人の生活内容を微妙に傳えているものであるが、今七日子と立石の発掘品を比べてみると、やはり割に古い時代に住まつたと考えられる立石地区の人々は、より多く狩猟的であり、それより、やゝ下る七日子遺跡の人々は石斧や石鍬などの多い処から見て、もうある程度その地に定着して原始農耕をささやかながら営んだ様子が窺われる訳である。
 叉漁※(木へんに労)具の出土は、既に先史時代の頃から、笛吹川等に於ては、盛んに漁※(木へんに労)が行われていた証左にもなる訳である。
 縄文式時代のこうした流れの中に、本縣に何時頃から彌生式の文化が合流し、何時頃から本町などに、その影響が傳つてきたか不明であるが、小原・下井尻地区より、ごく僅かに出士した土器片などの状態を見ると、これは彌生式でもより土師に近いものである。それも、ほんの数片であつて形態も判らす、性格的にどのような遺跡かも判明していない。
 元來定着農業の発生は、遠く縄文式時代まで遡るが、生活約に、より豊かな原始農耕村会の発生を見たのは、彌生式の文化の中からである。これは、水田農耕を始めた事が大きな原因であるが、これが爲、人々は段々に高地から、低湿地帯へと向つて移動するようになつた。小原や、下井尻の、割合に耕土が深く低湿地帯寄りの地点に、その遺物が出士する事は、或は、生産経済に一歩前進した現われであろうか。こうした状況は、この地帯に彌生式時代の人々が、水田耕作を営んだ様子も想像され、遺物があるたなしに拘らず、本町の先史時代の文化が徐々に進んでいた様子が知られる。
 然しここでも一つの考察は、七日子遺跡に見られるように縄文と土師の接近が 層位的にも遺物の画からも、何等かの関聯を持ちあつている如くに考えられる点である。或は、彌生期の遺物の稀薄な事と考えあわせて、意外にも彌生期と称する時期が短かくて、そのまま縄文と土師との接近が,特にはなはだしかつたのではないかとも思われる。
 ともあれ、縄文式文化と、彌生状文化とから成りたつ先史時代の生活は,冒木古代文化の最初の発達過程の中で、日下部町の周辺にも、このような微妙な影響を輿えつつ、やがて、金属器を豊富に使う原史時代へと移行する訳である。


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